老いのかたち(中公新書)を読んで

新聞書評を信用しまして、中公新書「老いのかたち」を求め、読んで見ました。黒井千次著の此の本は、56編からなる短編集で、“かつてのように歳を取りにくくなった昨今の老人は、どのように日を過ごし、何を考えたり感じたりして、どう生きているのか”昭和一桁生まれの著者が、自らの日常を通して「現代の老いの姿」を探る。

ときには、男女の老いの姿に思いを馳せ、或いは平均余命の数字に考え込む・・・など等。

これは、冷静な観察眼と深い内省から紡がれる、珠玉のエッセイ集である。と帯封にはありました。

年寄りの日常茶飯事を一寸深く掘り下げたもの・・・と言ってしまえば其れまでですが、中に二編感じ入るものがありました。

1・「歳を取れなくなった時代

歳を取るとは年齢が増す事だが、其れは只年齢が増す事ではない。歳を取るとは老齢に近づくことであり、壮年期を越えた下り坂の一年、一年をじっと辿り続けることに他ならない。

では、歳を取らないとはどうゆうことか。

 

時間と共に、年齢が増すのは否定しようもないが、此処での歳とは言わば年齢相応のイメージであって、60歳には60歳の風采があり、70歳にはそれに、前にはなかった風貌が備わり、80歳には更に風格が加わって・・と言う風に、かつては年齢の増加とイメージの変化は正比例していた。

いつの頃からか此の正比例の変化は曖昧になり、年齢の輪郭が崩れ始めた。そして、歳相応の貫禄と言うものが、何処かへ飛んでいってしまった。還暦になっても還暦の重みはなく、現在の70歳には、昔あった70歳の貫禄は得るべくもない。

「人が歳を取らなくなった」とはその事を指しており、良く言えば、元気な高齢者が増えた事であり、悪く言えば、老熟した年寄りが少なくなったことである。

これは、年齢を数字として扱う計算上の問題ではなく、生きる事に対する「質」の問題である。その過程には多分、核家族化、相続、女権の拡張、医療技術の発達など等、多くの問題が絡んでいるが、人は歳を取らなくなったのではなく、『人は年を取れなくなった』のではないだろうかと結んでいる。(慧眼である)

 

2・「平均余命で数字遊び

年齢とは、生まれて以来その人が過ごしてきた時間の集約であるが、寿命となると、急に数値の表情が変わってくる。此方は命の終着点を示しており、その表現の中には常に死が頭をよぎる。

因みに、厚生労働省が発表した平均寿命は、男79歳、女85,8歳である。

若いうちは誰しも、平均寿命まで生きられれば好いやと考えるが、此の平均寿命は観念論で、現在には合わないように思われる。

と言うのは、平均寿命とは0歳児が後どの位生きられるかの数値であり、言うなれば「0歳児の平均余命」であるからである。

であれば、50歳の人の寿命は当然0歳児の其れとは違ってくる筈で、厚生労働省発表では、夫々の余命は男31歳、女37歳となっており、合計男は81歳まで、女は87歳まで寿命があることになる。(例は50歳の人の場合である。後記の表参照)

此の平均余命をもって此れからの生活設計を立てる“此れが正しい考え方、生き方ではないだろうか。

此の考えに基づくと、私82歳の余命は約7年、未だ平均7年も生きられるのか、又は『オマケ』が七年付いてきたか・・??との驚きの感を大変強くしました。

であれば、今と同じ生活を7年も続けるのは勿体ないなー、何か新しいことが始められるのではないか・・・!!と考えた末、今流行の『アイパッド』で遊んでみるか・・・?との考えに達し、アップル直売店にアイパッドを電話注文(着払い)致しました。

勿論、事前にカタログを調べ、電話でカタログでは不明な点を質問し、納得の上の注文です。営業日10日程度で発送になりますとのこと、さてどの位使いこなせるものか、多分機能の1/10かも知れませんが、それはそれとして段々進んでゆけば良く、現物が来るのが楽しみであります。       

22・7・24〔大暑の翌日〕深田 稔 記

出典:厚生労働省ホームページ
投稿者 深田様より送られた写真を添付いたします。(クリックで大きな写真になります)

庭に咲いた夏の野草です。
カサブランカ
白の桔梗
半夏生
人には、その人なりの今まで積み上げてきた独特な生き方があります。
それを否定する心算はありませんが、こうゆう考え方もあると
知り、
私は大いに参考になりました。

如何なものでしょうか・・・。